言語の脆弱性

世界には数字を表す語彙のない言語が存在するらしい

比喩のような話ではなく「7」や「9」といったような概念がないらしい

よく教科書とかで虹の例を出して各言語の色の認識の違いが説明されていたりするが、数字に対してあったとは驚きだ

じゃあどうやって数の認識をしているんだという話であるが、1や2のほかは「たくさん」という概念にまとめられてしまっているという

更に驚きの話であるが、この言語の持ち主は目の前のものを数えたり数字の足し算をするのが非常に困難であるらしい

例えば目の前に数個のリンゴを用意して同じ数のリンゴを選択してくださいと要求しても、ピッタリ同じ数のリンゴは用意されないということだ

言語によりヒトの能力に差が出るということは、人の認識や思考がある程度言語に置き換えられて行われているということだろう

言語の弾圧が思想の弾圧につながると聞いたことがあるが、特定の思想に関する語彙を禁止にしたら確かにその思想の根絶につながるのだろう

逆にある概念に対する適当な語彙がない場合には、その概念を理解することは非常に難しいのだろう

一説によると黒船来訪直後の日本人や世界大戦時代の植民地の人々が平等、独立を求め西欧に触れたときにまず学び始めたのが「自由」という概念だとかなんとか…

言語は文化や環境に応じて発達してくると記憶しているが、数詞がなく発達してきた言語とは非常に興味深い

 

もうひとつ、言語で興味深いトピックと言えば前後左右の概念がない言語も存在するらしい

ではどうやって方向を表すんだと言うと東西南北であらわすらしい

例えば自分が北を向いていて右に机がある場合「東に机がある」という認識になるらしい

そのほかに人の写真を渡すと、被写体の方位により向いている方向の表す方位がちゃんと変わるらしい

思い出について話すときは方位についての情報までしっかりと覚えていて、その当時向いていた方向や物の向きは方位の情報をもとに話される

それゆえこの言語の持ち主は非常に高い方位に関する感覚を持っており、外の光が一切入ってこないような場所でも自分の向いている方位がわかるらしい

言語が違えば見える世界も大きく変わってしまうのだろう